らなる堂

音楽

今年を振り返る(映画編)その3

ターミネーター ニュー・フェイト

なんか知らんが俺が大っ嫌いな男がこき下ろしとったのでベタ誉めしたいと思います。

そりゃね、4人もいてなんでとっとことっちめられないんだというメタ的というか大人げない見方もできますよ。でもそんな選ばれた人間が色んな思いを抱えて理不尽な機械人形に挑んでいくのがシリーズの醍醐味なわけだし、時間すらも超えてその思いが受け継がれていくという強さが我々に希望を抱かせるわけです。シュワちゃんとは再び共闘するわけですが、その背景や関係性は大きく異なっており、2の焼き増しにはなってなかったと思います。

アクションシーンは血気迫ったものでしたし、新たなターミネーターT-800T-1000の組み合わせのような趣向で新しいのに懐かしいという不思議な感覚でした。強いていうなら最初のシーン以外は絶望感があんまりなかったことでしょうかね。チラッと出てきた多脚型の奴の方が絶望感がすごかった。でもあんまり絶望感を出そうとすると4みたいなスーパーロボット大戦になっちゃうわけだしなあ。そう行った意味ではシリーズの原点をしっかり見据えてたんじゃないでしょうか。

あれ?あんまりベタ誉めになってないや。まあいいか(適当)

 

◯グッド・ウィル・ハンティング

自分の持つ能力によって導かれるであろう未来と、自分が望む未来のズレ。えらい数学者の先生は価値観の修正によってウィルの能力の埋没を防ごうとしますが、心理学者の先生はウィルが本当にやりたいことを選ばせることを望みます。最初はウィルが世の中のことを知らないが故に友人たちとの狭い世界に固執してるのかと思いましたが、ウイルほどの人物が「世の中のことを知らない」なんてことないはずなので、そこで自己肯定感の欠如という問題が浮かび上がってくるわけなんですね(今わかった)。

"一見どこにでもいそうな人間が突出した能力を持っている"というストーリー構造を(ネタとして扱うか扱わざるかに関わらず)もはや何もかもが「なろう」というジャンルとして形容されてしまう世の中に嫌気がさしておりますが、物語として本来注目すべきなのは能力がどれだけ凄いか・その能力によって世界がどう変わるかというよりも、その能力に対して自分・他人・社会はどのように感じ、どう向き合い、変遷していくのか/していくべきかを考え描写すべきなのではないでしょうか(個人の好みがだいぶはいってますけど)。能力故に他人に虐げられ、それを理由に復讐に走る...おわり。なんてのはあまりにもあまりにもなんです。まあ僕が「なろう」を忌避する理由はもっと他のことにあるんですけどね(暗黒微笑)

...そんなことはどうでもいいわけで、ウィルが自分の為すべきことを見つけていく過程だけでなく、微妙な間柄の先生たちのやりとりや、いい奴しかいない友人たちとの模様などポジティブさに溢れた映画です。朝焼けに包まれる電車のシーン、エリオット・スミスの歌の美しさは言語化不可能。

 

◯ドント・ウォーリー

しょっぱなから「うおおおおキム・ゴードン姐さんが出てる!!!」と大興奮でしたが、話してた内容が現実にあったことと酷似してて泣いた。筋としてはアル中で下半身不随となったホアキン・フェニックスが風刺画によって自分を再建していく話ですが、時系列がバラバラに描かれているのが面白い。事故によってめちゃくちゃになった自分をユニークな人々の支えを受けながら赦し、その次に自分にとって許せないはずの人たちを赦していく。こちらもポジティブさに溢れた映画でした。

ホアキン・フェニックスが好きなんで楽しく見れましたけど、このご時世にあの風刺画の内容はどうなんでしょうねえ...という点でもやもやしました。

John Callahanが批判を浴びていたシーンはあるし、当時からすでに誰もが受け入れやすいものではなかったことは描写されてましたし、何よりJohn Callahan自身が障害を追っているからこそ描けたということもあるんでしょうけど、より表現の仕方に注意が必要となった現在においては、彼の風刺画に対しどのような向き合い方をすべきかということも添えてほしかったと思ってます。

 

エレファントも見ようかな...でも見終わった後ウツになりそうなんだよな...

 

ベルリン・天使の詩

僕もずっと運命の人待ってるんですけど(半ギレ) 打ちひしがれた人々が多く登場しますが、ベルリンの壁に描かれた素晴らしい落書きやライブ会場で流れてる荒涼そのものといったポストパンクに強い生命力を感じました。ニック・ケイブかっけえ。

長く天使でいればいるほど人間になりたいと思うようになるんですかねえ。人間は思ったよりも薄汚れてますよ。刑事コロンボとのコーヒー屋台との会話がすき。

 

◯グリズリーマン

動物や自然を背景にして「俺ってこんなすごいんだ」とアピールしまくる故ティモシー氏の姿は見てて痛々しい。自然動物には表情というものがないので我々人間は勝手に自分の都合のいいように動物の機嫌を「解釈」しがちなのですが、悪しき動物アテレコ番組のごとくそうした「解釈」を連発する故ティモシー氏。クマに取り憑かれたというにはあまりにも俗世への未練タラタラなのがまた痛ましいところでありました。自慢げにカメラに語りかける映像は苦痛でした(自分にも色々と思い当たる節があるだけに)。ギャグであったなら救いがあったでしょう。彼は大真面目なのです。あんまり辛すぎて「なんか昔こういうサングラスかけた面長のおっさんのインタビュー映像あったななんやったけあっ、デイヴィット・リー・ロスや、あとで見よ」という思考逃避すら始まってしまうザマでした。

そんなダメ人間の友人だった方々の証言がただただ切ない。(彼女たちの目に映る故ティモシー氏の姿はもはや人間ではなく愛玩動物のようなものだったとしても)あんなダメ人間を理解しようとする人間の心ってなんなんでしょう。あと解剖医の先生の話が面白かったです。

音楽にジム・オルーク先生が参加しとった! あの美しい音楽をもう一度聴きたいけど、Spotifyにサントラはないし、だからってそのためにもう一回故ティモシー氏の自分語りとかクマのウンコぶりぶりシーンとか見たくないしなあ

 

インヒアレント・ヴァイス

PTA3つめ。煙に巻かれるような展開をただ純粋に楽しめばいいんでしょうけど、あんまり受け身体勢で映画を見たくないという謎のプライドがあるんで、映画鑑賞後にピンチョンによる原作も読んで構造を理解しようとしました。

......よくわかりませんでした。

いや、ピンチョン自身がわざと全てわからないようにはぐらかしている=本当の敵は誰だか明確にわからないようにしていることが重要なんだと思います(言い訳)。ただ少なくとも Inherent Vice が一体何を指しているのかという点については映画以上に複雑です。特に最後のラリーとソンチョの重要そうな会話がわからん。

小説だと当時の世相なりヒッピー文化なりについてをその場その場で調べるくらいの気合いがいりますが(一番新しい翻訳本だと後ろに詳しい解説がついてるので安心)映画ならチャールズ・マンソンくらい知っとけばなんとかなるんじゃないんでしょうか。

この映画も好きなシーンが多いんですけど


Inherent Vice - Panekeku

シーンのほとんどが原作通りという凄み。あの場面をここで持ってくるのか!というシーンもありました(ネタバレ反転:名場面としか言いようのないラリーとビッグフットが一語一句違わず同時に謝罪するシーンは原作だと中盤にあります)。PTAすげえ。映画化にあたってカットした場面というのは非常に多いわけなんですが、全部やろうとしたらあきらかに冗長なラリーのトリップ描写とかやんなきゃいけないからね、しょうがないね。

映画と小説、比べてみて思ったのが、映画ではラリーが一人でいるシーンがほとんどないのですね。ほぼ常に誰かと行動し、誰かと会話している。ラリーを巡る個性豊かな人物たちとの関係性(特にビックフットとの関係性の変化は映画の方がいい意味で劇的です)が中心に描かれているように感じる。それはラリーが探偵を生業としていることもあるんでしょうし...あとはなんだろう...わかんないや...もう一回見なきゃ...

映画である程度話の筋がわかっていると小説も読みやすいと思います。そもそもインヒアレント・ヴァイスがピンチョンの中ではかなり読みやすいという話ですし。ただ、登場人物の中に「ホアキン」という名前の男が出てくるので混同しないように注意(ちょい役なんで間違えないと思いますけど)。あとジョニグリの音楽最高(定型文)。

 

スター・ウォーズ エピソード9

今年の目標は「スター・ウォーズに人一倍思い入れのある友人との会話でネタ切れしたらすぐエピソード8の話を振るクセを治す」でした。

エピソード9は少なくとも傷だらけになったシリーズの治癒/回復/救済にはなったと思います。カイロ・レンのマスクが序盤で修復されるのも前作で砕かれたスター・ウォーズの物語を「回復する」という意味合いが込められているそうです(大嘘)

純粋なファンほどその舗装具合に落胆するかもしれません。しかし僕は舗装した痕跡を探し当てては舗装の仕方にケチをつけたり舗装をひっぺがしてゲラゲラ笑う悪ガキです。とりわけ「大人の事情」「尺の事情」というようなメタ的な舗装は大好物です。そういう穿った目線が入ったこともあるんでしょうけど普通に楽しめましたし、エピソード8のようなキャラクターを踏みつけにして雑に殺すようなマネもなかったのでしばらくはダークサイドに墜ちずに済みそうです。

一応ネタバレ反転:パルパティーンのブレなさは救いそのものでした。自分が求められているもの以上の凶悪さでした。前作のルークは本当になんだったんでしょうね...

 

 

ほんとは怒涛のタルコフスキー作品連発というのも計画してたんですが、思考能力が急速に低下してきたのでここまでにしておきます。あと最後の最後でベルイマンの「野いちご」に衝撃を受けたのですがこちらもそのうちということで(そして永遠に書かない)。来年もたくさん見れるといいなあ。

追記:ブログの総アクセス数が今年中に10000行けばいいなあと思ってたんですけど8000いくつで終了と相成りました。まあ頑張った方でしょ。来年も適当にやります。

2020年もどうぞよろしくです。