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内省のための小山田圭吾の問題考証⑤′(片岡大右氏の著作:第4章について)

⑤はこちら

 

小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』第4章を読んでる最中に思ったことや指摘しておきたい事項などをまとめておきます。

あくまで原著の真価は第5章からにあると思うので、サッと流してしまって終わってもいいかとも考えたのですが、どうしても引っかかる箇所があるので、自分のためにも整理しておきたいです。

 

この記事でも『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』については「原著」として表記します。特に表記がないものは原著からの引用になります。

 

・「いじめ」の現実創発性の影響?

 この章では、「いじめ」という言葉が使われた際、それが受け取り手に与える現実創発性の原因がどこにあるかを説明し、小山田の記事や記事で語られたエピソードが実際には「いじめ」ではないのに「いじめ」のように扱われ、「いじめ」文脈や偏見で語られているという問題を解き明かすのが目的だと思います。

 そもそも、片山氏が引用する「いじめ」の現実創発性とは何なのでしょうか...? 間山広朗氏の論説(北澤毅 編、「〈教育〉を社会学する」、学文社、2011年)のうち、最も分かりやすそうな説明は以下の文だと思います。

いじめという概念においてもまた、その概念を使用することが何らかの行為となり、ある現実を構成する。例えば、「暴力と恐喝があった」と述べることと、「暴力と恐喝によるいじめがあった」と述べることは、異なる現実を構成しうる。

(「〈教育〉を社会学する」、p.111)

原著における、片岡氏が説明する「いじめ」の現実創発性の原因は2つです;

①いじめの構造重視

我々がよく聞く教育現場やニュースなどで「いじめの四層構造論」のようなモデルは、「いじめは加害者だけでなく傍観者にも責任がある」という言説も包含しており、解釈次第では加害者・被害者の関与の関係を超えて全ての生徒たちを「いじめ」の当事者(「いじめ」という物語の登場人物)として仕立て上げてしまう。

②いじめ(主に「いじめ自殺」)に関する報道、およびそれによる認識形成

同時に、「いじめ自殺」などのいじめに関する報道は、実際にはトラブルでしかない問題であっても学校内で起こったあらゆる出来事が「いじめ」として扱い、なおかつそれが自殺への主な原因として伝えてしまう。
また、そうした報道が過熱したことで「いじめは死に値するほどの苦しみを生み出し、自殺の原因になりうる」といういじめ認識が形成されている。

片岡氏はこの①と②が同時に生じることで、

 ともあれ、1980年代半ば以降、児童・生徒間に生じる厄介ごとを「いじめ」という解釈格子のもとに理解するよう促す強力な磁場が形成されてしまった。
問題含みの関係にあるふたりがひとたび「いじめっ子/加害者」と「いじめられっ子/被害者」の対立的構図のもとで捉えられると、もはやこのふたりは友人同士とはみなされない。一見すると仲が良い、あるいは同じグループにいるのであれば、「包摂型のいじめ」という説明が用意されている。

 こうして、被害者に加害者が対峙し、その周囲は囃立てる観衆や黙認する傍観者となり、(「四層構造論」)、教師や学校や教育委員会はしばしば事実の隠蔽を画策するといった「よくある話」が成立する。

としており、要は、我々が「いじめ」という言葉を聞いた際に、これまで見聞きした経験を元にして拡大解釈を起こしてしまうともに、その解釈を「いじめ」とは繋がらないような話にも当てはめてしまうということであると思います。


 ただし、これが小山田の「いじめ」脱文脈化につながるかというと話は違ってくると思います。

 まず、①いじめの構造重視ですが、小山田の「いじめ紀行」をはじめとしたエピソードでは小山田がいじめの当事者として語っているという点です(「いじめ紀行」では、小山田はいじめ対象であった「K」に対しての明確ないじめ行為は中高からしなくなったとのことですが、この点についてはまた別の角度から考察します)。

この章だけの話ではありませんが、この本は小山田並びに当時の「いじめ」現場に居合わせた人間への取材が一切行われていないので、小学生時代は加害者側にいたが中学生から傍観者へと立場が変わったのか、それとも小学生時代からすでに傍観者側で、たまたま加害者の行為を手助けしてしまったのか...など実際のところ小山田加害者・被害者の関与の関係の内/外にいたのかが不明です。

 そしてこれは同時に、②のいじめ(主に「いじめ自殺」)に関する報道、およびそれによる認識形成にも関わってくる問題です。小山田の起こした行為が果たして実際にはトラブルでしかない問題だったのか、明確にいじめと言える行為であったのか全く自明ではありません。

 前章での脚注でも記述しましたが、片岡氏は小山田のインタビューを「素直に、偏見なく(p.151)」読んだ際に受けた印象をもとに、いじめ行為ではないとの判断を下しています。しかしながら、こうした読み方はそもそも「2021年炎上時の謝罪の言葉を信じ、小山田圭吾は(少なくとも中高時代は)いじめを行っていない」という信念(悪く言えばバイアス)があってこその印象のように思われます。

そうした片岡氏の印象を裏付けるものがない故に、「『いじめ』という言葉の現実創発性に囚われた故に、小山田はいじめ加害者という烙印を押された」という片岡氏の論を受け入れ難くしていると思います*1

 また、これは別論かもしれませんが、片岡氏は「いじめの四層構造論」のみに着目しており、いじめの「定義」に対してはあまり触れていません。「いじめ」という言葉が拡大解釈され、本来であれば「いじめ」という問題で片付けてはいけない問題が生じてしまう背景には、いじめのモデルよりも、何が「いじめ」で何が「いじめではない」かを分ける定義(もしくは定義の扱われ方)が異常をきたしていることにあるのではないかと思います*2

さらにいえばいじめの現実創発性において、なぜ「いじめ」かどうかを判別する定義よりも先に「いじめの四層構造」のようなモデルが先行して想起されるのか説明はありません。
「今から語るエピソードはいじめの話です」と言われた際、我々は実際のエピソードがいじめ問題でないにも関わらず「いじめ」だと直感で捉えてしまうのでしょうか?エピソードの内容に耳を傾けることなく「いじめの四層構造」を思い浮かべてしまうのでしょうか?

(曖昧であれ)いじめの定義を吹っ飛ばしてしまうほど「いじめ」の現実創発性は強烈なものなのでしょうか?*3

 

 一応、私なりにいじめ定義についても扱っておこうと思います。

片岡氏は原著で、いじめの定義の問題点について以下のように言及しています。

大津の事件を契機として2013年6月に国会で可決成立した「いじめ防止対策推進法」は、「当該行為の対象となった児童などが心身の苦痛を感じているもの」すべてを「いじめ」と定義した。『囚われのいじめ問題』で指摘されるように、被害者の主観を根拠とするこうした定義は、「個人の事情を考慮しているようで、個人の事情を排除」してしまう。というのは「被害者」の時として事後的な申し立てにより、いったいどのような行為が「いじめ」と認定されるのかがわからないこうした定義のもとでは、対策は「いじめになるかもしれないものは一切禁止するしかない」といった画一的な予防措置に向かいがちだからだ。

(p.174)

また、「現実創発性」について前述した間山氏も、「学級」制度が有る限り、生徒が「正当に」別の生徒を「攻撃」する手段が与えられていないのであり、そもそも「加害者」となることすら許されず、(あらゆる生徒の「攻撃」が)一意的に「いじめ」という名の「不当な攻撃」になってしまう構造となっており、被害者の立場を重視したいじめの定義そのものが被害者の救済を困難にしている可能性を指摘しています。

 子どもの発達科学研究所の主席研究員である、和久田学氏も「学校を変えるいじめの科学(2019年、日本評論社)」において、「いじめの境界」が広がり、逆にあいまいさが目立つという問題を取り扱っています。

和久田氏は、ダン・オルヴェウスによる世界的に有名ないじめ定義*4を整理し、3つの要素に分解しています。

①「相手に被害を与える行為」

②「反復性」

③「力の不均衡」

日本におけるいじめ防止対策推進法でのいじめ定義では、「②と③が含まないどころか、その意図を考えて、定義に②と③を含めてしまうことこそがいじめ対応を遅らせる原因になるとしている「学校を変えるいじめの科学」、p.24)」と述べています。

また、①に相当する「心身の苦痛」については次のように述べています。

何しろ、痛みには個人差がある。子供がみずから言ってくれればよいが、そうはいかない。被害を受けている子どもが、自分の被害体験を大人に訴えることは珍しい。

(「学校を変えるいじめの科学」、p.26)

和久田氏は、子供たち自身が自分の直面している状況がいじめかいじめでないか判断できるようないじめの定義が必要であるとし、このオルヴェウスの3要素に、マーラ・ボンズらが提唱したいじめ教育プログラムで用いられているキーワード「不公平な影響*5」を加えた4つの要素を挙げます。

和久田氏は、いじめ防止対策推進法でのいじめ定義(「心身の苦痛」)の定義を尊重した上で、上述した4つの要素のうち「力の不均衡」「不公平な影響」を特に重要な「いじめを深刻化させるキーワード」として教師・生徒の間で共有していくこと(間山氏流に言えば「攻撃」の不当/正当性の境目を理解させること)で、

子どもたちは、友人とのさまざまなトラブルを抱えている。それらの多くは法律の要件に当てはまるが、それをすべて「いじめ」として外部の助けを求めさせるのは難しいし、それは彼らの成長の機会を奪ってしまうという意味で好ましくないことかもしれない。しかし、その延長線上に深刻ないじめがあるのも事実である。だからこそ、この「いじめを深刻化させる2つのキーワード」を共有する意義がある。

(「学校を変えるいじめの科学」、p.34)

としています。

このように、和久田氏が述べたような現行の「いじめ」定義の問題は当然のことながら教育現場においても問題視されていますし、「いじめ」定義の社会におけるアップデートおよび浸透の必要性を訴えていくことで、小山田の「いじめ」脱文脈化を図ることもできたのではないでしょうか。

 

...と言いたいところですが、片岡氏がこの章で言及していない問題があります。小山田の「いじめ」対象が知的障害を持った方であったことです。

 

・小山田によるシンキングエラー、障害者差別の可能性

 加害者が健常者、被害者が障害者という構造は「力の不均衡」という前述したいじめ定義の要素に当てはまってしまいます(「学校を変えるいじめの科学」、p.87)。

また、原著p.121で片岡氏は「箱ティッシュのエピソード」を引用しています。

沢田はね、あと、何だろう......”沢田、ちょっといい話”は結構あるんですけど......超鼻詰まってんですよ。小学校の時は垂れ放題で、中学の時も垂れ放題で、高校の時からポケットティッシュを持ち歩くようになって。進化して、鼻拭いたりするようになって(笑)、『おっ、こいつ、何かちょっとエチケットも気にし出したな』って僕はちょっと喜んでたんだけど、ポケットティッシュってすぐなくなっちゃうから、五・六時間目とかになると垂れ放題だけどね。で、それを何か僕は、隣の席でいつも気になってて。で、購買部で箱のティッシュが売っていて、僕は箱のティッシュを沢田にプレゼントしたという(笑)。ちょっといい話でしょ?しかもちゃんとビニール紐を箱につけて、首にかけられるようにして、『首に掛けとけ』って言って、箱に沢田って書いてきましたよ(笑)。それ以来沢田はティッシュを首に掛けて、いつも鼻かむようになったという

(p.120)

このエピソードについては「いじめ」か否か判断が分かれるものかと思います。片岡氏のいう「いじめ」の現実創発性に囚われた読者であれば、「ビニール紐を箱につけて、首にかけられるようにして、『首に掛けとけ』って言って、箱に沢田って書いてきましたよ」というような言動ですら「いじめ」ではないかと首を傾けてしまいたくなってしまうでしょう。こうした疑念を払い切れないのは何も「いじめ」の現実創発性によるバイアスだけでなく、いじめ加害者の特徴である「シンキング・エラー」の可能性を否定し切れないこともあるのではないかと思います。

先ほど引用した久保田氏によれば、

(...)ボンズらが提唱するいじめの4つのキーワードの1つに「不公平な影響」がある。その「不公平な影響」のために、いじめの加害者は、加害行為をしていてもそのことに気づけない。たとえそれが被害者を痛めつける行為であったとしても、「あれは遊びだった」「自分にはそういうことをしてよい権限がある」「これは指導なのだ」などと考える。これが「シンキング・エラー(間違った考え)」なのである。

「学校を変えるいじめの科学」、p.35)

より疑念を重ねるような見方となってしまいますが、結局のところ小山田氏の「箱ティッシュのエピソード」における行為がそもそも”いい話”ではないという可能性も捨て切れないのです。結局のところこれも被害者たる「沢田」(もしくは「K」)への声に一切触れられていないことに由来するのですが、片岡氏が被害者の声を聞くことなく「沢田」と小山田との関係が「まったく「いじめっ子/いじめられっ子」としてのものではなかった(p.120)」としてしまうことは誤謬なのではないかと思います*6

 加えて気にかかるのは、小山田が「沢田」のことを二度も「バカ」という言葉で持って表現している点です。

「いじめ紀行」では、

僕は沢田のファンになっちゃってたから。でも、だからもう、とにかく凄いんです、こいつのやることは。すっごいバカなんだけど......

(原著、p.119)

『オマエ、バカの世界ってどんな感じなの?』みたいなことが気になったから。なんかそういうことを色々と知りたかった感じで

(原著、p.124)

木村草太氏の「差別のしくみ」(朝日新聞出版、2023年)における差別に関わる概念を以下のように挙げています。

①偏見:人間の類型に対する誤った事実認識

②類型情報無断利用:人種や性別などの所属類型に関する個人情報の無断利用

③主体性否定判断:相手が自律的判断をする主体であることを否定する判断

④差別*7:人間の類型に向けられた否定的な価値観・感情とそれに基づく行為

(「差別のしくみ」、p.14)

小山田の「沢田」への揶揄は、障害者に対する否定的な価値観・感情を明らかにしているものではないでしょうか。

さらに言えば、「バカ」という言葉が障害とその人に関わる言葉であったことにも注意が必要です(生瀬克巳、「障害者と差別表現」、明石書店、1994、p.185)*8

先ほど引用した久保田氏は、「障害者のいじめ被害の問題は、障害者の人権侵害、もしくは障害者差別の問題と絡めて語るべき「学校を変えるいじめの科学」、p.86)」としており、片岡氏についてもこの小山田の問題が健常者対障害者という構図を抱えたことにもっと注記すべきであったのではないかと思います。

 

他、被害者のこと軽視しすぎてないかとか、「東京ガールズブラボー」なら丸玉玉子、「リバーズ・エッジ」だったらハルナの姉の話せなあかんやろとか色々ありますが、一旦ここまでとしておきます。

 

次の章ですが、インフォデミックの原因となったとされるブログの管理者が、次々に自身のブログの名を著書や論文で使った研究者や出版社に対して損害賠償請求を行なっており(当然片岡氏と原著の出版社である集英社も対象にしております、おそらくスラップ訴訟?)、ちょっと様子見が必要かもしれません。

何とか文章制作は続けたいですが、公開まで時間がかかってしまったらすみません。

 

まあこんな零細ブログ見てる方なんてほんのわずかでしょうし、そもそも小山田記事書き始めたのも一年ぶりでしたのでお許しください(謎理論)。

 

 

*1:「いじめ紀行」に話を絞れば、最初に小学生時代の「毒ガス攻撃」のエピソードの時点で、①②を原因とした現実創発性とは別に「小山田はいじめっ子だった」という認識が生じるはずです。

*2:確かに、報道において「いじめ」が扱われる際、わざわざメディア側がいじめ定義を参照して「これはいじめだ」「これはいじめではない」といったような振り分けは行っていないとは思いますが

*3:確かに内容もよく読まずにSNS2ちゃんねるでのコピペで題名や要約だけ読んで「小山田=いじめ」と決めつけられてしまう例が第5章から登場しますが、第4章では「いじめ紀行」などの記事を読んだ人に生じた現実創発性を取り扱っているはずです

*4:「ある生徒が、繰り返し、長期にわたって、一人または複数の生徒による拒否的行動にさらされていること」など

*5:被害者と加害者が受ける影響には不公平が存在すること、被害者はいじめを受けて傷つき、悲しむなどの感情的反応が起こるのに対し、加害者側はこうした反応は起こさず共感性をなくし、「そのくらいのことはしていいのだ」「これは遊びだ」などと考えてしまう(「学校を変えるいじめの科学」、p.31)

*6:まあ片岡氏は小山田の教師ではないのだから、そんな教育現場の次元でのいじめ対策の話をされても困るとは思いますが...

*7:木村草太氏は類型に向けられる否定的な価値観・感情・行為こそが、差別禁止規範の中核的対象であり、「差別の本体」であるとしている(「差別のしくみ」、p.10)

*8:言葉狩りのつもりはまったくありませんが、小山田が「沢田」をこうした表現で指したことは共感性の欠如の現れではないでしょうか