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内省のための小山田圭吾の問題考証⑤(片岡大右氏の著作:第4章について)

④はこちら

引き続き、『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』についてのまとめとそれに対する所感を述べます。

 

今更ながら、これまで「本書」= 『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』として呼称しているのですが、正確には「原著」と書くべきだったかもしれません...今回からは「原著」と呼称します。

前回分は全体の内容が一旦纏まり次第訂正しておこうと思います。すみません。

 

1. 「いじめ紀行」は本当にいじめエピソードなのか 

 小山田の、過去にクイック・ジャパン(以下「QJ」)、もしくは小山田がソロデビュー前に行われた「月刊カドカワ」でのインタビューは、知的障害のある生徒との意義深い交流であったことが前章で示された*1

しかしながら、こうしたエピソードが「いじめ紀行」という枠にはめられ紹介されてしまったことで、小山田は「いじめっ子」という扱いを受け、読者もいじめのエピソードとして受け止めてしまったのではないか、と片山は推測する。

 

 片山はここで、「いじめ」という言葉による認識について取り上げる。

(...)「いじめ」や「いじめっ子 / いじめられっ子」といった言葉は、学校生活の中で生じた事実を単に記述するばかりでなく、それらを用いることによって現実を書き換え、新しい現実を生み出すことができるということだ。

(p.153)

(...)悪口や陰口や強要や仲間はずれのような行為、さらには相対的に軽度の身体的暴力については、それを「いじめ」と名指すことで事態の深刻性が強調され、たとえ法律による処罰が難しいとしても、被害者にもたらす精神的な苦痛の点において、許されざる「悪」には違いない何かとして捉えなおされることになる。

(p.153)

片山は小山田に対し炎上時、もしくは炎上後も依然として厳しい視線が向けられているのも、小山田が程度の多少はともなく「いじめ」といえる行為に関与していたことを根拠・共通認識としている故だと指摘し、なぜ我々がこうした「いじめ」という物語に囚われてしまうのかについて掘り下げを行う。

 

2. 「いじめ」の構造と文脈

 片岡はまず、代表的ないじめ構造の定説として森田洋司らによる「いじめの四層構造論」を挙げる。

いじめの四層構造

いじめを発生させない環境づくり | 不機嫌な教室 | 授業に役立つヒント | お役立ち情報コラム | 楽しむ・応募・投稿 | 教職員共済

 

森田はこの構造のうち、特に「傍観者」の役割が大きいものとなるという。

傍観者は、直接課外に関わっている自覚がないとしても、加害を黙認し、歯止めがかからない状況を作り出すことによって、いじめの成立に決定的な役割を果たすのだという。

(原著p.156)

片岡はこうした「傍観者」も巻き込んだ、「傍観者も加害者である」といったような学説は今日日の教育現場に強い影響を与え、森田による「いじめの四層構造論」を知らない人々のもとにも「いじめは傍観者も悪い」「傍観者が一番悪い」といった言い回しとなり広まっているものだとする*2
 しかし、こうした「いじめの四層構造」はあらゆるいじめを説明できるものではない、と片岡は指摘する。
その例として、2021年の旭川市での中学生凍死事件や、2012年の大津市中学生自殺事件を挙げ、こうした例は教室内でいじめが周知され、ある者は「観衆」として、ある者は「傍観者」として見て見ぬふりをするいった図式が適用し難いと、片岡は北澤毅・間山広朗編『囚われのいじめ問題ー未完の大津市中学生自殺事件』内での共同研究を援用する。

 北澤らは、「いじめの四層構造論」の普及のきっかけとなった1986年の「葬式ごっこ」事件の実態を再調査するため、この事件に関わった元生徒らの証言を検証したところ「葬式ごっこといったいじめ被害を受け、結果的に自死に至った」とされる被害者について、自死にいたった苦しみの中心的な原因は同級生にも教師にも見えないところで行われていた身体的暴力であり、校内で行われていた「葬式ごっこ」自体は自死の直接的な原因ではなかったとしている*3

片岡は、改めて「いじめの四層構造論」が、あらゆるいじめ行為に対し全ての生徒たちが関与していることとなってしまうことを説き、

(...)こうした捉え方は、加害責任の所在と程度を曖昧化し、出来事にほとんどあるいはまったく関わっていなかった人びとの責任を不当にまたは過激に問うことになりかねないという問題がある。

(p.162)

それ故、「いじめの四層構造論」のようなフォーマットは、多様かつ複雑な生徒間のあらゆるトラブルを、あらゆる生徒たちに対して「いじめ」に関与しているとすることができるため、「いじめ自殺」などのいじめに関する報道が生じた際にはこうしたフォーマットをもとに「いじめ」が語られることで、(実際にはトラブルでしかない問題であっても)いじめが被害者の命に関わった原因として解釈されてしまい、なおかつ加害者・被害者の関与の関係を超えて全ての生徒たちを「いじめ」の当事者(いじめ物語の登場人物)として仕立て上げられてしまうという問題を指摘する。

そして、小山田圭吾も「いじめ紀行」の取材を引き受けることで、「いじめの四層構造論」の通りいじめ物語の登場人物となってしまったのではないか、「いじめ紀行」という枠組みのなかで、いじめと関係のないエピソードを素直に読むことができないのはそうした「いじめ」に関わる囚われがあるためであるとする*4

 

 次に片岡は、国語辞典における「いじめ」という言葉が明治時代から90年代にかけて、とりわけ学校との関わりで用いられることになったという変遷に着目し、この原因として80年代における報道では、学校の主要な問題(校内暴力など)を「いじめ」という言葉のもとに捉える方向に向かっていったことを挙げる。
そして1985年において、水戸市にていじめを苦にした中学2年生の女子が自殺する事件が発生し、朝日新聞が「死を呼ぶ”いじめ”」と報じたことをはじめとして、『いじめは死に値するほどの苦しみを生み出し、自殺の原因になり得る』といういじめ認識が確立していったとする。
 また、片岡はこうした社会の動きと小山田への注目は大いに関係があると指摘している。小山田の「いじめ紀行」の取材の背景には愛知県におけるいじめ自殺を背景としており、以後の小山田のいじめ問題を蒸し返す以後の動きは、2004年における蕨市の中学2年生女子の自殺事件や、2006年前後に連続して発生した一連のいじめ自殺事件*5に触発されたものと考察する。

しかしながら、教育社会学者の伊藤茂樹は、こうした(社会に対し小山田への注目の原因となりうる憤激を与えるような)いじめに起因する自殺は「ごく例外的な現象である」としており、こうした自殺報道を確立した『いじめは死に値するほどの苦しみを生み出し、自殺の原因になり得る』といういじめ認識は、問題の予防や解決を妨げる「逆機能」が認められるという。

 片岡は北澤らの共同研究に立ち戻り、上記のようないじめ認識およびそうした認識を基とした言説空間の成立は、子供たちが自身の経験を「いじめ」という枠組みで解釈してしまうことで、かえって苦しみ(あるいは自殺)の原因となっている側面もあるとする。2013年に国会にて成立した「いじめ防止対策推進法」では被害者の主観を根拠としており*6、どのような行為が「いじめ」と認定するのかがわからない定義となってしまっていると北澤は指摘している。

片岡はこうしたいじめ認識により、

ともあれ、1980年代半ば以降、児童・生徒間に生じる厄介ごとを「いじめ」という解釈格子のもとに理解するよう促す強力な磁場が形成されてしまった。
問題含みの関係にあるふたりがひとたび「いじめっ子/加害者」と「いじめられっ子/被害者」の対立的構図のもとで捉えられると、もはやこのふたりは友人同士とはみなされない。一見すると仲が良い、あるいは同じグループにいるのであれば、「包摂型のいじめ」という説明が用意されている。

(p.174)

とする*7

3. フィクションへの「いじめ」の影響と「いじめ紀行」のいじめ描写

 片岡は朝日新聞出版の小説誌「小説トリッパー」の掲載作について取り上げる。そこでは、学校をテーマとした特集回(発刊当時の特集題は「学校の時間」)において、当時寄稿した小説家たち(江國香織角田光代など)全員がいじめをめぐる作品を寄稿してきたことに着目し、

この事実を前にして、作家たちは子どもたちの生活世界の最も厳しい現実にまっすぐ目を向けようとしたのだと考えるべきか、それとも、彼らはいじめをめぐる社会的通念に影響を受けるあまり、大部分は「いじめの向こう側」で営まれているはずの子供たちのありのままの日常を捉えそこねたのだと考えるべきか。

(p.179)

(...)「学校の時間」というお題に全員がいじめをめぐる創作で応えてしまったという事実を前にしては、学校生活をめぐりいつからか共有されるようになった通念に作家たちが十分に抵抗できなかったという、想像力のいわば集合的な敗北の証をそこに認めないでいるのは難しい。

(p.180)

とする*8

 

 次に片岡は、村上清による「いじめ紀行」の、小山田を特集した回に続く、第2回と第3回について取り上げる。
第2回は編集者・ライターの竹熊健太郎を取り上げた回であり、この回では小山田のエピソードよりもいじめられっ子の秘めたる残酷さやいじめっ子への転換を回想しており、「いじめ紀行」の当初の要旨に合った記事ではあるとするも、全体としてはむしろ「いじめの学校生活における位置づけをそれほど大きなものとは感じさせない内容になっている。(p.186)」とする。竹熊のこうした語り口は、いじめ被害を過度に深刻なものと受け止めず、自分の人生において相対化できているためとしている*9

また、第3回のジェフ・ミルズについてはやりとり自体が噛み合っておらず、「いじめ」事態に対してのコメントをほとんど得られなかったのではとしている。

「いじめというものを通り越している」と言うべき米国の暴力的な現実*10を見据えながらも、彼は音楽のような生産的な何かに打ち込むことで新しい現実を切り開こうとしていた。

(p.189)

 

 片岡は結びとして、改めて小山田の問題に立ち返り、

小山田圭吾はいじめ言説の確立以前の小中学生だったことを忘れてはならない。だからここで彼は、「いじめ」とカテゴライズされる行為すべてが、被害者の自死を帰結させかねない倫理的悪とみなされるに至った1990年代の言語空間のなかで、高校時代に交流を深めた学友に小学生の頃に行った、問題含みとはいえ悪意のないー「お詫びと経緯説明」の言葉を用いるなら、「遠慮のない好奇心」に駆り立てられたー振る舞いに、遡及的にその名を与えなければならないものかと自問していたのだと思われる。

(p.191)

「いじめ紀行」をの取材を受けた小山田自身の焦燥をこのように片岡は説明するとともに、我々が(実際には大部分がいじめの話ではない記事で構成された)「いじめ紀行」を読んだ際に、許しがたさを表明せずにいられないと言うのは、私たち自身の囚われの問題・先入観の問題であるとする。

 

所感など

書いてて色々思うことがあったんですが、

長文はそぐわないご時世なので、

別記事にまとめます。

 

 

 

 

*1:原著pp.150-152での記述。「知的障害のある生徒との意義深い交流」はp.151における片山の表現である。他には「特に高校時代の「沢田」に対して、全くいじめっ子として振る舞ってなどいなかったことを理解できたはずだ。(p.152)」など、前章より小山田のインタビューを「素直に、偏見なく(p.151)」読んだ際に受けた片山自身の印象をもとにいじめ行為の否定を行っている。本章以降、片山はこの印象を根拠に、小山田による明確な「いじめ」行為は存在しなかったということを前提として論を進めている点に注意。本記事ではそうした片山本人による印象を否定・再考証することは一旦行わない

*2:「いじめは傍観者も悪い」とする訴えの例はこちらを参照

*3:ただし、少なくとも被害者の自死の直接的な原因であったかどうかに関わらず、「葬式ごっこ」といういじめ行為は、教室という場で、教員も参加した陰惨ないじめ行為であったことが報じられている

*4:小山田が「いじめ紀行」で語った内容がいつの間にか「いじめと関係のないエピソード (p.164)」とされ、加害者からの立場から外されて論じられていることに注意。

*5:滝川市小6いじめ自殺事件福岡中2いじめ自殺事件岐阜県瑞浪市中2いじめ自殺事件

*6:「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じるもの」

*7:この文について、そもそも片岡がこの章にて、1980年代半ば以降に報道によって形成されたいじめの社会的な認識は『いじめは死に値するほどの苦しみを生み出し、自殺の原因になり得る』というものである。北澤たちはこうした認識のもとにおいて「子供たちが自身の経験を「いじめ」という枠組みで解釈してしまう」としているのであり、片岡の言う「児童・生徒間に生じる厄介ごとを「いじめ」という解釈格子のもとに理解するよう促す強力な磁場」が社会で形成されたかどうかまでは語っていない。また、ここまでの論の要旨と問題点についてはいったん後述することとしたい。

*8:片岡は次に岡崎京子の『東京ガールズブラボー』『リバーズ・エッジ』について触れ、『東京ガールズブラボー』についてはいじめられっ子がいじめを受けているという事実は「日常を構成する諸要素のなかのひとつ、それも重大ではない要素の一つに過ぎなかったのだろうと想像できる(p.181)」)、『リバーズ・エッジ』では主人公の彼氏からいじめを受けている登場人物について「文化的好奇心に満ちた少年の心象風景を、死へと誘う苦しみとしてのいじめ体験を中心に構成するという選択が、ほかのさまざま選択のなかの一つにすぎないということは確認しておきたい(p.182)」としている。
 「いじめが日常を構成する要素の一つ」とする片岡の意見はあまり賛同しがたい。『東京ガールズブラボー』のようにいじめの描写が1-2ページで終わるようなものもあれば、例として押切蓮介の『ミスミソウ』のような全編に渡りいじめ行為が描かれたフィクション作品も当然存在する(こちらは2006〜2007年の作品なので比較として不適当かもしれないが)。

シリアスな空気を全編にまとった『リバース・エッジ』はさておき、ギャグ描写を主体とした『東京ガールズブラボー』の場合は岡崎京子が単に脇役である犬山のび太の描写をあまりフォーカスするつもりがなかっただけではないかと考えられる。

 さらに所感を述べさせていただくと、『東京ガールズブラボー』では小玉玉子というキャラクターによる主人公への嫌がらせ行為とその顛末が上下巻にわたり描写されている。引用するならこちらを用いた方が良かったのではないだろうか…

*9:なお、竹熊氏による小山田の炎上に関するXでのコメントはこちら。竹熊氏は小山田の「いじめ紀行」の受け取られ方については「(...)私の記憶では、90年代前半に流行った「悪趣味」「鬼畜系」ブームの中で、その変種として受容されたのではないかと感じている。(...)」としているのが興味深い。

*10:「いじめ紀行」の中でジェフ・ミルズがDJになってからクラブで銃を乱射されたというエピソードを指す