らなる堂

音楽

内省のための小山田圭吾の問題考証①(背景と動機)

・問題考証するに至った背景と動機

らなる堂管理人たる私は、一時期ミュージシャンとしてのスキルの高さ、そして音楽と作家性の関係性について考えるため小山田圭吾の音楽をよく聴いていた時期があった。

私が彼の音楽に触れたのは、NHKのテレビか何かで彼が出演していて気になったからだったと思うが、そうしたふとしたきっかけから『Fantasma』を購入して本格的に聴き始め、すごいミュージシャンだなあと思っていた。

その少しした後に、おそらくアーティスト名か何かで検索した結果当時もまだ燻って(むしろ燃え盛って?)いた「いじめ問題」について知り、<作品と人格は切り離せない>というような旨の文章をネット掲示板で読んだことから、*1自身でそれを検証すべく中古で1stアルバムから当時の最新アルバムであった『Sensuous』までを購入して聴き、自分の耳でそれが本当であるかを検証しようとしたのであった。*2

つまり、リアルタイムで彼が音楽界で存在感を表していった頃、そして彼が「いじめ問題」として告発され始めた時期においては全く彼のことを知らなかったのであり、完全に後追いでこうした問題について考え始めたのである。

そして考え出した結果としては、彼の曲には確かに凶暴・悪戯ともとらえられるような音的な仕掛けや歌詞が点在するが*3、それがあの「いじめ問題」を起こすような人間性に直ちにつながるようなものとは思えない、それ故に小山田圭吾の音楽においては作品と人格は切り離して良いのではないか、というものであった。

そして、音楽業界全体や、小山田圭吾と関わっていたミュージシャンについても特に「いじめ問題」について言及されることはなかったため、この「いじめ問題」については解決はみなかったものの、特に注目される必要のない話題として埋没していったのではないかと感じていた。

現に私自身もこのブログにて2018年の作品『Mellow Waves』についての感想を述べていた。*4 つまり、自分においても埋没させていい問題であると考えていたのだ。

 

あの五輪問題で再び彼の問題が再燃して初めて、小山田圭吾の「いじめ問題」は依然として影響力のあるトピックであり、埋没させてはいけない問題であることを思い知ったのであった。

 

それ以後、この問題を見ないフリをして小山田圭吾の音楽を甘受していた自分を恥じるように私は彼の音楽を聴かなくなり、CDを全て売り払った。

北尾修一氏による「いじめ問題」についての情報源の一つであるブログの検証が行われていたことは、ツイッターにおいて私がフォローしている識人からのリツイートで知っていた。しかしながら、この「情報源の一つであるブログ」の管理人の周到さを知っていた私はそんなことをしても泥仕合と中傷合戦が起きるだけであろうと冷笑していた。そして、小山田圭吾に関する情報の一切をシャットアウトするようにした。

 

それから2年、片岡大右氏による「小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか」が発刊された。

www.amazon.co.jp

小山田圭吾についての全てをシャットアウトしようとしながらも、心のどこかで彼の「いじめ問題」に関する出来事について燻っていた私は、この著書の発刊を契機とし、なおかつこの著書を足掛かりに「いじめ問題」を自分なりに考証することで、この小山田圭吾の「いじめ問題」について決着をつけることとした。

 

続きます。

*1:

www.j-cast.com

*2:ちなみにフリッパーズギターについては、当時中古CDが高くて手に入らず聴けなかったことや、その後Youtubeで聞いてみたら小沢健二のセンスがどうも自分と合わず、ほとんど聴いていない

*3:『69/96』:「Heavy Metal THUNDER」、『Sensuous』:「Gum」「Scum」のようなアルバム曲中で唐突に挟まるヘビメタ・ノイズ曲、『Point』:「Nowhere」における人によっては耳が痛くなりそうな20秒以上の高周波音、『Point』:「I Hate Hate」の舌打ち、『Sensuous』:「Gum」における「ばか あほ かす ざま ざこ がき たこ かね なし」といった乱暴気味な単語など

*4:

ranaldou.hatenablog.com